自己紹介をかねて、これまで行ってきたことを年代順に述べます。
- 1961年
- 慶応中等部に入学。以後、慶応高校を経て、医学部入学
- 1973年
- 慶応大学医学部卒業。医師国家試験合格。研修医となる(放射線科)。試験を受け、米国の医師資格取得
- 1976年
- 慶応大学医学部放射線科の助手に採用される
- この後、ほぼすべてのがん種を対象とし、がんの放射線治療に従事する
- 1979年
- 米国ロスアラモスのパイ中間子施設で医師として働く
- パイ中間子は粒子線治療の一種だが、治療効果に見切りをつける
- 1980年
- 帰国。再び通常の装置を用いた放射線治療に従事
- 1983年
- 講師に昇進
- この年、乳がんにかかった実姉を乳房温存療法で治療。当時、日本では全く行われていなかった乳房温存療法を普及させようと決意
- 前後して悪性リンパ腫の抗がん剤治療に取り組み、日本人患者の生存成績を大幅に改善した
- 1988年
- 「乳ガンは切らずに治る 治癒率は同じなのに、勝手に乳房を切り取るのは、外科医の犯罪行為ではないか」という論文を月刊『文藝春秋』誌に寄稿
乳房温存療法が日本での標準療法になるきっかけとなった
- 1989年
- 乳房温存療法を受けた私の患者たちを中心として医療市民団体「イデアフォー」が設立された。その活動が、乳房温存療法の普及を後押しした
- 1990年
- 『乳ガン治療・あなたの選択』出版
- この頃から、無治療を望むがん患者への「がん放置療法」を実践。最長23年以上、150人以上のがん放置患者を診る
- 1992年
- 「がん検診・百害あって一利なし」という論文を「文藝春秋」誌に寄稿
- 1995年
- 「文藝春秋」誌に10回にわたり、がんについて連載
読者投票で1位となり、その年の「文藝春秋読者賞」を受賞
- 医療事故の鑑定書作成を目的とする「医療事故調査会」を共同して設立し、世話人になる。私自身、医療事故の鑑定意見書を60件以上作成してきた(注)
- 2000年
- 『医原病』出版
- 『よくない治療ダメな医者』出版
- 現在に至る
注:私が鑑定書を提出し、事件事実や判決内容が公刊されているものとして以下の3件がある
・陥没乳頭に対し乳頭形成手術を行い、乳頭を壊死させた事例(福岡地裁。医療過誤判例百選、第80事件)
・胆嚢がんを発見した医師が告知しないので、本人が楽観して手遅れになったとして訴えた事例(名古屋地裁。最判平成7年4月25日。医療過誤判例百選、第9事件)
・乳がんで乳房切除術をうけた患者が、乳房温存療法が妥当だったと訴えた事例(大阪地裁。最判平成13・11・27。平成13年度重要判例解説90頁)